昭和47年1月9日 朝の御理解     (末永信太郎)

御理解第56節
 日にちさえたてば世間が広うなってゆく。ひそかにして信心はせよ。



 ひそかにして信心はせよ、と。ね。日にちさえたてば世間が広うなって行く、と。はあ。大変苦しいことがある、悲しいことがある。ね。けれども、そこをじっとこう、辛抱して行っておると、いつの間にか紛れてくる。段々、それが苦しみも薄うなって来る。ね。そして、ほんにゃ、あんなこともあった、と言うて思われるような風にもなって来る。
 私はあの、日にちさえたてば世間が広うなってゆくというのは、そういうことではないと思うですね。苦しい、けれども、まあ、辛抱して行きなさいよ、と。こんな苦しいことばかりは続きませんよ、と。ね。さっ、ここが辛抱のしどころ。で、しっかり、まあ、辛抱しなさいよ、と。ね。
 と言うて、まあ、慰めてでもあげなければならないほどしに、の時に、まあ、そういう風に申しますけれども。ここでは、そういうことではない。なるほど、そういう難儀な問題に直面しておるというか、そういう厳しい中にあるという時にですね、私はその、世間が広うなって行くということがです、自分の心が広うなって行くおかげを頂いて行かなければ駄目だと思うです。ね。
 ただ、日にちがたつにつれて、それが段々思いが安らいで来る、または、もう、本当にもう、一層死んだ方が良うはなかろうかと思うような時ですら、日にちが経って参りますと、はあ、ほんにあん時死なんでよかったと、例えばそういう苦しい時でもです、日にちは薬とか、日にちがたてばというのではないです、ここではね。そういう、例えば、ことに直面しておりましてもです、いわゆる、世間が広うなって行くというおかげ。ね。世間が広うなって行くおかげを頂くということなのです。なら、世間が広うなって行くというような信心は、どのような信心をさせて頂いたら良いだろうか、と。
 自分が高められる以外にないです、自分の心の状態が。ね。高められるから、心は自ずと広うなって来るのです。ね。そこんところをです、ひそかにして、信心はせよと仰っておられる。だからここでは、ね、苦しいことでも、まあ、そこを辛抱し抜いて行くうちに楽になる、と。こんな苦しい時ばかりはありますま、と。これは、信心のない人たちの、まあ、言うならことであり、ない人たちの言うなら慰め言葉なんとはそんなもん。そりゃもう、頑張りなさい、頑張りなさい。今は苦しかろうけれども貴方、子供さんたちがちゃんと大きゅうなりござるから。もう、今によかこつがありますが、と。
 なるほど、子供が大きくなってから楽になったのであったら駄目です。ね。そこには、子供は大きゅう、例えばならんでもです、ね、自分の心が大きゅうなる。自分の心が広うなる。だから、楽になる。だから、おかげが大きい。ためには、自分自身がね、高められる以外にありません。信心を高めて行くということ。 自分の心が高められて来るということ。ね。言うなら、山登りをするようなもの。段々、ね、登って参りますと、ね、7合目、8合目というところ辺りまで登りますと、それをこう、視野が広げって参ります。同じ道理です。自分の心が大きゅうなって参りますと、ね、自分の心が高められて参りますと、視野が広うなって来る、見える場が。ね。
 頂上を極めでもするなら、もうそれこそ、例えばこの未納山に例えますなら、筑後平野は、もう一望のうち。いや、お天気の良い時には有明海の方までが見える。そして、その爽快さというかね、気分の良さ、高められた、その、頂上を極めたということの楽しみ、喜びというものは、また格別なんです。なるほどきつい。登る時には、もう、息が切れそうにある。けれども、その頃はもう、登ることの楽しみが、ね、高められて行くことの喜びがあるのです。信心はそれが尊いと思うですね。
 どんなに難儀なことがありましても、苦しいことがありましてもです、私は今朝御祈念中に、雪が無くてはスキーは出けんということを頂きました。なるほど、雪がなくてはスキーは出けませんよね。どんなに道具を例えて揃えて持っておりましてもです、今年のように、こう、温かい日が続きますとね、いつものその、スキー場に、このスキーを担いで行くばっかり、雪はない。
 この頃から御信者さん、若い方達が参りました。本当にお願いをして参りましたら、おかげを頂いて、まあ、雪があって、あの、おかげで、まあ、滑って帰って来た。まあ、滑って帰って来たちゅうですか、スキーをして帰って来た。その夕方からお湿りになった。その後から行ってる人達は、もう皆、滑られんで帰って来たと、こう言う。やっぱお願いをして行かにゃいけませんと言うて、お願いを、あの、お礼お届けがありました。ね。スキーをすると言うてもです、雪なしには、あの、私はやったことがないから分かりませんけれども、まあ、スリルもあるでしょう。ね。
 あの、冷たい中に、それこそスキーを履いて滑るあの爽快さというのは、スキーをしないでも思われます。それを若い時に一遍ぐらい、スキーぐらいやっておきたかったなと思うくらいですわ。ね。はあ、段々上手になってまいりますと、滑るだけではない。ジャンプから、またジャンプ。谷間から、その谷間を超えて飛ぶような、その、まあ、スリルを見とって冷や冷やするようなね、感じるようなことも出ける。
 そして、今日はこの56節を頂いた。日にちさえたてば、ね、世間が広うなってくる、と。もう、これは私はギリギリ、ね、おそらく教祖の神様に大変な難儀な問題、もう、本当に死んだ方がマシと思いますといったような信者氏子に対して御取次を下さった時の御理解じゃなかろうかと思いますね。
 まっ、ひそかに、それは苦しかろう。けれども、ひそかに、ひそかに信心して行け、と。心が広うなって来る、堪えられんことが堪えられるようになるだけではない、そのことが有り難うなって来る。その難儀こそが、いわば、なるほどスリルもあるだろう、寒い冷たい思いもするだろうけれども、倒れ転びしながらでも、スキーのけいこをさせて頂いておる内に、スキーの楽しみ、いわゆる、スキーの一つのスリル感といったようなものを、ね、この寒いのにスキー担げてスキーに行く若い人達のようなです、どうでしょうか。そのような楽しみに実際の例えば、雪と言やあ冷たいもの。ね。
 それこそ、じっとしておるなら、凍えるような時、けれども、スキーを覚えておる人は、もう、雪がちらちら振り出したらジッとしておられんというくらいに、私は元気が出て来るのじゃないかと思う。さあ、今度の日曜にはスキーに行くぞお、という楽しみがある。ね。
 信心させて頂いておっても同じことが言えると思うです。ね。さあ、この難関をどうして乗り越えようかと、信心で。なるほど、苦しいことだろう。けれども、やはりスリルがある。神様はどの手でおかげを下さるであろうか、と。ね。この頃でしたけど、日田の綾部さんが、もう本当にこうやって合楽に御神縁を頂くようになって、段々親先生任せになるということが有り難いことであり、それで、まあ、私の生き方が変えられた。親先生任せて、今日こうやっておかげを頂いておる。
 けれども先生、まだ半信半疑でございますと、こう言う。これは、こういう問題が次から次と起きて来よるが。実際、親先生はああ仰るけれども、どうなるもんだろうかとスリルを感じると言うのです、いわば。ね。けれども、そこから逃れようとは思いません。ね。神様がどの手でだいたいおかげを下さろうと思いござるのじゃろうか、こういう問題が次から次とある中に。
 けれども、なら、親先生が全面的に信じられておるという訳ではないけれども、まあ、来し方というか、振り返ってみると、なるほど親先生が仰る通りにしておけば、本当におかげを頂いて来て、はあ、あの時親先生が仰った通りにしとったおかげで、今日こういうような結果になっておるというなことを思うとです、いや、これはこれからとても、やっぱり、このようなおかげを頂くだろうとは思うけれど、まだスリルがあるという訳なんです。普通から言うたらもう、さあ、ほんにどげんなるじゃろうか。
 今の内、手を打っとかんならどうなるだろうか、と例えばいうようなことでも放っておきなさい、放っておきなさいと神様は仰る、親先生は言いなさるが。それから私は、ちっとこの頃そのことが、スリルを感じるけれどね、それがその、楽しみになりましたと、この頃言うておられました。神様がいわゆる、思いもかけない、あの手この手を使うてです、おかげを下さることは段々、確信が出けてきた。けれども、この問題に限っては、神様がどの手を打ちなさるだろうかと思うと、スリルもあるけれども、また、不安もあるけれども、また、楽しいものだという訳です。
 そこでです、ひそかに信心をして行けという、そのひそかに信心して行くところを、まあ、大事にして生きておるという訳でありますね。そうです、本当にどうなるだろうかと思う時にはです、何遍も何遍も同じことをお伺いせにゃおられんごと、あれは不安だからなんです。ああ、まだまだ、と言われると、まあまあ、安心。なら、ま一時辛抱させてもらう。その辛抱がです、ただ、ここでは腕こまねいて辛抱するということだけじゃないのです。ね。日にちさえたてば、楽になるという、そういう楽になり方じゃないのです。
 子供が大きゅうなりよるから、ね、今は苦しかろうけれども、まあ、子供の成長するのを楽しみに生きなさい、と。なるほど、子供が順調に成長をして、親孝行してくれりゃ、まあ、それでいいけれど、そうじゃないかも分からんのですからね。子供は途中で、親よりか先に死ぬるようなことがあるかも知れんのです。ね。これはもう、その、56節の次、57節に、金の杖をつけば曲がる、竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃと仰る。ね。まあ、いよいよの時には金でしょう、と。金で解決しようと、金のある人は思うかも知れません。けれどもね、金では解決が出けないことがあることに気付くのです、お互い。
 いや、金はこん時には何もならんということになるのです。ね。木や竹は折れる、と。ね。私は、この木や竹は折れるということは、気丈な人、ね、元気モンのこと。ほれはあ、やって、やって、やり抜くというような元気のある人。そういう人があります、いわゆる根性と言いますね。根性がしっかりしてる。
 だから、あそこをやり抜いて行かれる。けれども、そういう、なら、根性を持っておる人でもです、ね、いわゆる、自身喪失と申しますか。ね。その心が折れる、挫折する。その、あんな強い人があんな弱いことを言いござるというようなことになるて。だから、自分の心だけでもいけないのです、木や竹は折られるのです。ね。そこで、神を杖につけば楽じゃ、と。
 もう、私はこの御教えを頂く時にいつも思うんですけれども、本当に私どもが信心させて頂いてね、この楽じゃというおかげを頂かにゃいけんです。どんな場合でも、どういうところにあっても。ね。どういう難儀の真中にありましてもです、心は楽じゃ。それは、神様一心にすがっておるからなのです。
 金も頼りにはしておらん、物も頼りにはしておらん。人も、いやそれは自分の子供ですら頼りにはしていあに。実を言うたら、頼りにならないもの。ね。いや、それでも自分の腕だけはと言うても、さあ、自分の腕だって、実は頼りにはならん、と。そこから初めて、神を杖につく。神様一心にすがるということになるのです。ね。神を杖につけば、このようにも楽なもんだろうか、ということ。
 で、難儀を持っておる、その難儀を難儀と感ずるならです、まだまだ、神の一心に、杖に付いてはいないのだと悟らにゃいけんです。私はそれを本当に思います。楽でないならば、まだ神様を一心に杖を付いてない証拠なんだ。ね。だから、その神様がです、本当にすがり甲斐がある、頼り甲斐がある。なるほど、そういう働きも力も持ってござる神様であるということをです、今日、56節のような時に実に付けなければならないということです。
 日にちが薬、日にちが経ちゃあ、ね、まあ、さあ、辛抱して行きよるうちに、ただ、辛抱して、ね、それこそ血の涙を流しながら辛抱して行くのではなくて、心は広うなって来るということは、信心が高められるから広うなって来るということですね。山登りと同じ、登れば登るほど、自分の心というものは、広うなる。いわゆる、視野が広うなる、見える場が広うなる。
 (    )問題をこのようにして、近視眼的な見方をしておるから、そのことだけでも、目の前が真っ暗になるのです。ね。ですから、これをです、ね、遠く離して見るということは、ね、まあ、言うなれば神様の心になって見てみること、神様の心を分かる。
 昨日、伊万里の竹内先生たちご夫妻がお礼に出てみえられて。ほれは、色々お話させて頂いておる間に、元旦祭にお参りをさせて頂いて、先生が手(おろう?)しておられたからお届けが出けませんでしたけれどもと言うて、お届けをされますのに、元旦祭にこちらへ向かわせて頂く車の中で、神様から、信心とは、天地の心を分かること。ね。その分かったことを行ずること。ちょっと私は、言葉を失念しましたけどね、そういう意味のことなんです。
 もう、金光様の御信心っちゃ、竹内先生、もうそこに極まっとるですばいて言うて、お話したことでした。金光様の信心とは、御利益を受けるということじゃない。病気治し、災難避けの神じゃない。ね。そんなら、どういうことかと言うと、ね、そうそう、中に天地の体得ということがあったですね。天地の体得を知るということ、信心とは。ね。
 それから、天地の心を知るということ。そして、その天地の心をです、知って、その天地の心を行じて行くということが、金光教の信心だ。これはもう、金光教の信心だというより他にないです。ただ(信心だじゃったら?)何々様もありゃ、何々教もあるですから、やはり、金光様の御信心は、もう、絶対そうです。
 ね、天地の大徳が分かれば、本当の神恩報謝の生活が出けます。ね。頭で分かっとっても、心で分かっていないから、ね、お礼を申し上げることがいっぱいあっても、そのお礼がお礼になって来ずに、お礼は言うとるけれども、悩み苦しみの方が大きいということになる。それは、悩みもあろう、苦しみもあろうけれども、ね、神恩報謝の心がだんだん強うなって来ると、もう、そういう有り難いという心から苦しいことを引いたら、もう、有り難いものだけしか残らん。
 まあ、それまでに、いわば天地の体得を知ると同時に、お道の信心は、もう何と言うても天地の心を神様の心を知るということ。神の心を知って、そして、それを行じて行くということがお道の信心だというお知らせを受けましたと、こう言う。はあ、もう金光教の信心は、もう、これに尽きるのだ、と。ね。
 そういう神の心とか、または、御神徳。ね。神の体得というものをです、私どもが段々分からせて頂くというか、信心によって、信心修行によって、ね、苦しいことは一切、すべてを修行と思うてやらせて頂きよったら、その苦しいことも修行になり、その修行をさせて頂くことが有り難うなり、一段一段、信心が進んで行く、高められて行く。なるほど、心は広うなる、視野が広がって来る。
 いわゆる、近視眼的な見方をしておるから、もう、目の前あ真っ黒、この世が真っ黒ということになるのである。ね。そこんところをです、私どもは広げて行くことのためにです、信心修行をさせてもらう。ね。そこんところをです、私はそういう難儀を踏まえての信心の時こそです、一人ひそかにして信心しなければならないということ。誰もそんな難儀なことの中に口では言うてくれても、付いては来てくれません。自分がひそかに、ひそかに信心させてもらう。
 そういう、ひそかに信心させて頂いておる間に、生神金光大神、生神金光大神、神を杖にして、ね、あれにすがる、これに頼っておるというものを一切投げ売って、ただ、神様だけにしかすがる、貴方だけにしかすがる術は道はないとして、神様一心にすがって行く内にです、ね、その綾部さんじゃないけれども、半信半疑ではあるけれども、なるほど、神を杖に付いておれば楽じゃということが、言わば半楽のところを今通っておられるわけですね。
 ですから、段々その、そういう体験が積みに積まれて参りますうちに、絶対のものが、いわゆる絶対信が生まれてくる。その絶対信が杖になるのである。なるほど、この絶対信を杖にすんならです、なるほど、どのような場合であっても楽じゃ、と。人が難儀と言うておってもです、ね、それをおかげとして行けることになる。いや、むしろ雪の降ることを楽しみ。また、スキーに行けるという喜び。スリルもある。ね。
 けれども、そのスリルそのものが、また有り難い。なるほど、世間は広うなっていく。ひそかにして信心せよ。信心はひそかに、ひそかにして信心はせよです。信心はせよと仰っておられる。苦しいことがね、ね、ただあれに紛らかし、これに紛らかし、苦しい時にはよく、まあ、その自棄酒なんかていう、言いますわね。もう、酒なっとん飲まにゃやりきれない。
 もう、芝居なっとん見げ行かにゃやりきれない。いっちょ、もう漫才なっとん見げ行って笑うち来るか、と。ね。漫才を見て笑うとる間だけ、芝居を見て帰って来る時には、もう寂しい思いで帰って来んならん。酔いの覚めたら、もうそれこそ、酒の(ふろにが朝だけしか?)残らない。ね。そこを信心させて頂く者はです、その難儀なその心をです、心配する心で信心せよ。神様へ打ち向かうて行く、御取次を頂いて、ね、御取次のことを頂いて、そのことは親先生にお任せして帰らせてもらう。と言うてすっきりする訳ではないけれども、段々すっきりする度合いが強うなって来る。心が楽になって来る。その楽な心におかげが受けられるんです。ね。自分の心のおかげの受け物の中が不安、しょうそう、心配、苦しいだけでいっぱいであるとです、おかげの入りようがない。
 そのことは神様にお任せして、そのことはすまに託してとそのざに。これは、もう私が十何年前の句です。渡辺先生ていう方があの、鎌倉の絵を書いてきて下さった。あの雪の中に入っておる、雪の中に(ふくりゅうそう?)が二つこう、あの、まあ、書いてあるんですよね。お正月の掛け物にするという、色紙に書いて下さった。先生、これに何か(さん)を書けと、こういう訳です。
 ちょうど私は、もう来年から、来年の4月に学院行きをしなければならないということであった。ちょうどその当時でありました。ね。だから、一応学院行きは、もう決心しておる。だから、そのこととは、そのことなんです。そのことは、妻に託してとそのざに。ね。
 そこに託しえれるものがあるということ。ね。そこに任せてしまえれる人があるという、まあ、人というわけじゃない。ね、ということだけでも、有り難いでしょうが。それを、んなら、絶対の働きを持ってござる神様に託するのですから、任せるのですから。ね。
 どういう苦しい時であっても、さあ、それはそれとして、ね、受けれるのです。とても、こういう悩みを持っておる時に、もう(  )の段じゃろうかいというのじゃなくてです。ね。そういう一つの難儀を持っておる、踏まえておる時に、私どもはいよいよ、本当の良い信心を身につけて行かなければならない。
 そして、なるほど、金では曲がる、木や竹は折れる、ね、事実も体験させて頂くがよい。だから、まあ、頼る人があんなら、いっちょう一生懸命、誰彼に頼み回ってでも、その、することもよかろう。ね。金があるなら、いっちょ金でうんと使うてから、この気持ちが楽になるなら、その、金を使ってみることも良かろう。ね。けれどもです、ね、それこそ、ね、地獄の沙汰も金しだいというくらいだから。ね。
 金で出来ることが、その、地獄の沙汰でも金しだいなのですから。ね。けれども、信心させて頂いていよいよ分からせて頂くことは、なるほど、地獄の沙汰は金しだいであろうけれども、極楽の沙汰は金ではいけぬということである。ね。地獄の沙汰だけは金で解決するかも知れんけれども、私どもが日々有り難いとか、勿体無いとか、神を杖につけば楽じゃという、そういう楽な心は、金だけでは通用しないのである。ね。
 そういう事実を分かって、私は信心をさせて頂くとです、信心がいよいよ尊い、有り難いものになって来る。そして、そこから神様の心も分かって来る。神様の心が分かれば、それを行じて行く。それが、お道の信心だと、竹内先生は頂いておられる。ね。
 だから、そういう例えば心になればです、例えばお互いの持っておる難儀は解消して行くなん。ね。金にも不自由しなくなる、健康にも恵まれるだろう、家庭はいよいよ円満になって行くだろう、商売は繁盛して行くだろうということになるのです。ね。
 ですから、目指すところは神様のお心をお心として分からせて頂いて、大徳を悟らせてもらって、ね、その天地の大徳に対する神恩報謝のその心を持って、私どもは日常生活が出けるという信心を目指させて頂く。それが、お道の信心だ、と。今日は、日にちさえたてば、世間が広うなって来るというところを、ね、なるほど、日にちさえたてば、だんだん気分が紛れてきてけれども、ということではなくて、自分の心が広うなって行くことを勤めながら、しかも、ひそかに信心させて頂きながら自分の心が高められて行くということである。だから、視野が広うなって来る。ね。
 心は、だから楽になって来る。ね、苦しいものが無くなるじゃなくて、むしろ、そこに喜びが湧いてくる。それは、登ることはきついけれども、そのきついこと事態が、また有り難くなって来る。こげな寒かつにスキー担げて、はあ、もう汽車も乗られんごたる汽車ば、もう、こうこうやって乗ってでもスキー場に行く若い人達の心持ちと同じように、ね、それにはです、雪はなしにはスキーは出けんということになります。
 ね、だから、雪そのものを一つの難儀と私どもは思うておるのです。はあ、また冷たい雪が降ると思うのですけれども、スキーを体得させて頂くと、その雪がまた有り難い。信心を本当に体得させて頂くと、難儀もまた有り難いということになるのです。どうぞ。